1985年にECバイーアの下部組織に入団。
1993年、同トップチームでプロ生活をスタート。
その後フラメンゴやサンパウロなどブラジルのクラブチームを渡り歩く。
1998年にバイーアに戻ると才能が開花し、
同年カンピオナート・バイアーノMVPおよび得点王、
1999年カンピオナート・ブラジレイロ・セリエB(2部)得点王、
2000年には再びカンピオナート・バイアーノMVPと得点王に輝く。
2000年のシーズン途中からJリーグの名古屋グランパスエイトへ入団する。
ゴールを量産する活躍をみせ、当初はドラガン・ストイコビッチ、
後年にはマルケスとの2トップでリーグ屈指の攻撃陣を形成した。
2003年にはJリーグ得点王及びベストイレブンに輝き、
翌2004年11月にはアルシンドを抜いてJリーグ外国人最多得点記録を更新した。しかし2005年、ネルシーニョ監督と自身の起用法を巡って衝突、
その後クラブ批判にも発展し謹慎処分を受ける。
結局開幕戦1試合に出場したのみで退団し、ECバイーアへ戻った。
アトレチコ・ミネイロ退団は決まっていたものの移籍先が見つからなかったところにサンフレッチェ広島からのオファーが届き、
2006年当初半年間のレンタル移籍という形で加入(のちに契約をシーズン終了までに延長)、佐藤寿人と抜群の相性の良い2トップを組み、
ゴールを量産。2007年末に広島のJ2降格に伴い、退団した。
2008年、大分トリニータにレンタル移籍。抜群の存在感を見せ、
同年のナビスコカップでは決勝で追加点をあげ優勝に貢献。
2009年も大分でプレーしたが、年齢から来る衰えに加え、度重なる負傷により、満足にプレーすることは叶わなかった。
同年8月3日に、現役引退を表明した。
2010年1月、引退を事実上撤回し、ブラジルのECヴィトーリアと契約するも同年に退団。
2011年古巣ECバイーアにコーチとして復帰する。
2012年現在、バイーア州4部のECジャクイペンセ(ポルトガル語版)でコーチとして活躍している。